『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の制作が発表され、映画館で予告が流れ始めた頃、僕はこの映画を見る気がなかった。といっても浅い理由で、単にディズニー・ピクサー風の絵が苦手であるとか、主要人物の配役に声優ではなく俳優を選出しているとか、その程度の理由である。
数あるゲームの中から選ぶとしたら、間違いなくドラゴンクエストを一番に愛すると言える僕だが、ならばシリーズの全てを追っかけるかと聞かれると、答えは「いいえ」だ。例えば、ソーシャルゲーム、イベントなど……。
ただし、評判が良ければ観に行こうと思っていた。本当に軽い気持ちで「いいえ」を選ぶつもりだっただけで、「はい」を選ぶ可能性だってあったのだ。いやはや、他人の評価を見てから映画を見に行くかを決められるとは、良い時代になったと言うべきだろうか。
果たして、『ユア・ストーリー』の公開が行われた。
ご存知の通り、散々な評価である。
以下、『ユア・ストーリー』のネタバレを含みます。やや辛口です。
感想に入る前に、原作である『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』に軽く触れておこう。
SFCで発売された作品であり、PS2、DSでリメイクされている。DS版の移植として、スマホでもプレイすることができる。
親子3代に渡る壮大な物語で、シリーズの中でも主人公の「人生」を共に歩む色合いが強く、秘められているテーマとしては「家族愛」だ。ゲームを遊んだことのない人でも知っているのは、ビアンカとフローラのどちらを花嫁として迎えるか選択するという点だろう(デボラについてはややこしくなるので割愛)。
『ユア・ストーリー』は、そんな作品を基に作られた映画である(はず)。
この映画を観に行った人の多くが、その原作をSFCでプレイした大人だと思う。中にはDS版が最初という僕のような人もいるかもしれないが、いずれにしても『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』の全てに心を打たれた人だろう。
そして、少なからず『ドラゴンクエスト』をプレイしていない人も観に行ったのだろう。「ゲームはプレイしたことがないけれど、映画なら行ってみよう」「原作が有名らしいから、きっと面白いに違いない」……このように思って、劇場に足を運んだ方もいるのだろう。
さて、何が彼らを失望させたのだろう。
CGのクオリティは悪くない。予告編を見ただけでもわかっていたが、本編でも十分な出来栄えだった。前述でディズニー・ピクサーを引き合いに出したが、比較的予算が少ない中では良いクオリティなのだと思う。
無論、言いたいことはある。もう少し人物が欲しかった。残念ながら、役割を持った必要最低限のキャラクターに力を入れ過ぎて、イマイチ現実感・臨場感に欠けていた。これは予算と技術の限界で、やむをえない。ベストを尽くした結果だろう。
配役に関しても、別段悪くはなかった。
ビアンカやフローラには、それぞれ井上麻里奈さんと花澤香菜さんが声優として割り当てられている。個人的には彼女たちを起用してほしかったが、作風ゆえに俳優を起用するのもわからなくはない。
そして、リュカ(主人公)役の佐藤健さんはもちろん、フローラ役の波留さんについては拍手を送りたい。ビアンカ役の有村架純さんについても、苦労しながら立派に仕事をこなしたのだと思う。
では、脚本はどうか。よく叩かれるのは原作との改変である。
これについては何とも言い難い。「改変」ではない……と思う。
というのも、この作品は『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』の映画化ではないからだ。前置きでは「原作を基に」と述べたが、実際のところは「原作を使って」別の作品を作ったとするのが正しいように感じる。
それであれば、原作とのミスマッチは当然だ。むしろ、そうでなくてはならない。山崎貴総監督が「映画として戦えることが見つからなければ、作る意味がない。単に物語をなぞったり、ゲームの副読本になったりするだけなら、映画にする必要はないと思っていた」と述べているとおり、この映画はゲームの焼き直しではないのだから。
ならば、その方法が問題であったのかと疑うのは当然である。
インタビュー記事。こちらから山崎氏の発言を引用している。
まず、この映画は原作をプレイしていない人には理解できない。なぜなら、その原作本編における少年期がほぼダイジェストになっているから。
青年期以降がメインになる原作だが、その青年期に入るまでのほぼ全てが伏線になっている。特に、本作でも重要な要素である結婚要素は、ビアンカやフローラとの出会いがある少年期をなくしてはならない。ゲレゲレとの出会いも、ゴールドオーブの入手(+α)も少年期である。
本作では青年期から始まるといっても過言ではない。それはすなわち、まったく知らない人たちが「昔を共に過ごした人たち」として登場してくるのだ。おまけに感動の再会である。ゴールドオーブのくだりも、原作をプレイしていない人にとってみれば、意味がわからないものになってしまう。
この時点で、今作は「往年のファン」が対象であると気付く。
ちなみに、公開から間もない劇場には家族連れ、子供連れのお客さんが多かったらしい。悲しいなあ……。
しかし、これもまた仕方のないことである。
何十時間もかけてプレイするゲームを、長くても3時間にまとめるのは至難の業だ。無理難題と言ってもいい。どこかを切り捨てなければならない。山崎氏にとっては、それが少年期だったのだ。客からすれば愚策に思えても、表には出ない制作上の都合もあるのだろう。
「往年のファン」でなければ理解できない作品になったのは必然だった。
さて、こちらのインタビュー記事の一部をご覧いただきたい。
原作のプロデューサーである堀井雄二さんから、山崎氏に2つのお願いをしたとのことだ。
「1つはプロポーズのシーン(主人公リュカが、幼なじみのビアンカと大富豪の娘フローラのどちらかを選ぶシーン)をとにかく厚めに脚本を書いてほしいと。ゲームのときは、『ほとんどの方がビアンカを選ぶだろうな』と思いながら書いたのですが、意外とフローラを選ぶ人が多かった。だから、映画ではビアンカかフローラか、再び論争を呼ぶくらい観客を迷わせてほしいと。もう1つは、ゲームを知らない方でも、1本の映画として存分に楽しめるような作品にしてほしいと伝えました」
だとしたら、少年期は大事に描くべきだったのではないだろうか。
堀井氏にとっては、本当にこれでよかったのだろうか。
作中では世界観がしっちゃかめっちゃかになっている。全てを羅列すると途方もないので簡単にまとめると、妙にゲームらしかったり、逆にドラクエらしくなかったりする。
一応、オチをもって気持ち悪さの正体に理解が及ぶのだが、これもまた夢オチのような、根底からひっくり返すものだ。
往年のファンはこれだと満足しない。彼らはドラゴンクエストの世界観を臨場感たっぷりに再現されるのを望んでいた。
山崎氏にとってはメッセージ性なのだろうが、客の求めているものを作るよりも自分の作りたいものを作ったのだと思い知らされる。クリエイターとはかくあるべきか?
「今回加えた『オチ』がなくても見られる映画にしなければとの思いは強かったが、原作のパワーにはすでに十分面白いものがある。そこをちゃんと描けば大丈夫だと思いました」
山崎氏曰く、オチがなくても見られる映画にするつもりだったそうだ。事実は異なり、オチがなければただの「名作の映画化に失敗した駄作」として、特に触れられることもなく終わっていただろう。あの酷いオチがなければ、こうも話題になるまい。
この発言からでも、原作に頼り切っているというのがよくわかる。
あなたでなくとも難しいが、あなたでなければと考えてしまう。
僕が最後に伝えたいことに入る前に、2つ紹介しよう。
脚本は山崎総監督が自ら執筆した。ゲームの要素を過不足なく盛り込んだ内容は前後編、あるいは3部作でも展開可能なボリュームだが、「分けて作る気はなかった。ドラクエだけに関わっているわけにもいかないので」とジョーク交じりに話す。
最初に紹介したインタビュー記事の一部である。
僕が怒りを覚えるなら、ここだけだ。
作品に関しては、それが限界、それが実力だったんだと諦めがつく。しかし、たとえ冗談のつもりで言っていたのだとしても、そして事実であったとしても、目の前の仕事に対して「それだけに関わっているわけにもいかないので」と言うような人物が監督であったのが残念でならない。
僕は山崎氏の手がける映画の出来についてはどうでもいい。『アルキメデスの大戦』は名作だと聞くし、『STAND BY ME ドラえもん』も普通に面白いと聞いている。だから腕が足りないなどと言うつもりはない。VFXがなかったら監督になれたのか……とは思うが。
そしてこちら。
提訴した内容が事実であれば、このような不誠実があっていいのだろうか。
結局のところ、リスペクトの欠片も感じないのだ。再び表現を変えるなら、原作を「使って」よりも、原作を「踏み台にして」の方がよりしっくりくる。
さて、最後に伝えたいのは、やはり『ドラゴンクエストⅤ 天空の花嫁』をプレイしてほしいということだ。
以前プレイした人はもう一度、プレイしたことのない人こそ是非、原作のゲームをプレイしてほしい。
それでこそ、あの映画があった意味だと思う。